「思考を積む -亀井洋一郎の現在地-」
大長智広(京都国立近代美術館 研究員)
亀井洋一郎が《Lattice receptacle》で、栄えある朝日陶芸展のグランプリを獲得したのが2001年である。ここからすでに16年余りが経過した。この間、亀井は自らの制作上の課題を明確にしつつ少しずつ歩を進めてきた。亀井は《Lattice receptacle》シリーズを制作するに当たり、鋳込みで基本単位となる5cm立方のキューブを作り、面を切り取り、それを積み上げるという作業を行う。この積み上げられたキューブは、垂直、水平の力学に従うことで法則性を持つ幾何学形態へと変貌する。
とはいえ、やきものの仕事とは、水分を含む可塑性を持つ粘土を素材に成形し、乾燥、焼成を通じて水分を失わせると同時に粘土の組成そのものを変えることで、半永久性を持つ「陶」に変容させるものである。ちなみにセラミックスとは、無機物の焼結体のことをいう。このような媒体では、制作を行うにあたって重力や熱量、物質的特性などからは自由ではいられない。実際に亀井の《Lattice receptacle》シリーズでは高温焼成によって土が陶へと変わる過程で、土が動き、ゆがむ、たわむというやきもの固有の特性が巧みに造形に取りいれられている。つまり、重力とやきものの特性を利用することによって、積み上げられた個々のキューブは結合するとともに、はじめて作品における視覚的水平性、垂直性を獲得することができるのである。《Lattice receptacle》とも関連するために、ここで亀井の《Ceramics Drawing》についても触れておきたい。
この作品シリーズは、平面的であることも含めて、一見すると亀井の従来の仕事とは大きく異なっている。制作方法は、作者が設定した一定の秩序に従ってセラミックファイバー紙にセラミック顔料や酸化金属でドローイングを描き、それを板ガラスで挟み込んで焼成を行うというものである。焼成によりドローイングは様々に変化し、物質固有の特性を顕在化させる。高温焼成の過程では、亀井が設定した条件に対して、その条件内にとどまらない物質性とのせめぎあいが常に起こっている。時に亀井の想像を超える結果をもたらす物質的変容は、綿密なプランに従って制作される《Lattice receptacle》に基づく亀井の経験的枠組みに揺らぎをもたらし、「やきもの」という存在をあらためて理解していくためのきっかけとなった。
このように、やきものには素材の特性や重力、焼成との関係性からくる制作上の制約が多くあるが、亀井はそれを受け入れつつ、作者の意思を通じて「やきもの」として明確化させることを試みてきた作家である。この亀井の思考の軌跡をよく示すものに、自身の仕事の展開をまとめたチャートがある。そこには2001年の朝日陶芸展グランプリ作品を出発点に置き、STEP1から8までが記されている。その展開は順にSTEP1「比率の展開 白銀比・黄金比」、STEP2「外形の展開1」、STEP3「外形から内形へ」、STEP4「光の受容器」、STEP5「外形の展開2 2+2+2から3+3へ」、STEP6「内と外の境界」、STEP7「Mono-Poly 単結晶と多結晶」、STEP8「空間を覆う うつわの様相として」となっている。ここではキューブを積み上げるという手法は全てに共通しながらも、思考の深化がもたらす作品の変化が論理的に展開している。こうした亀井の作品展開は、各STEPでの仮定と考察、実制作を経て生じた新たな課題をやきものの造形として次にどのように解決していくのかの道筋を示したものであり、その根底には、「うつわとオブジェという表現形式の隔たりを私はどのように共存させ得るのか」という問題意識が存在する。
今日、私たちはオブジェと器物を区分することについて、ほとんど疑問を持てないほどにその区分は一般化している。これは主要な各種公募展において、多くの場合、「自由造形」と「伝統」とに対象が分けられていることからもわかる。確かに日本のやきものは、伝統工芸、伝統技術という価値観を確立させたことで、今日まで連綿と守り伝えられてきた。加えて、それが展覧会や人間国宝の制度に置き換えられることで、伝統的な陶芸家であっても、美術家・芸術家としての世間的評価と地位を獲得することが可能になった。一方で、この問題は、一見制度に反するかのように登場したオブジェにおいても当てはまる。日本で陶のオブジェが登場したのは戦後のことだが、走泥社のリーダー的存在であった八木一夫が述べているように、オブジェの先駆的団体である四耕会の活動は、連綿と守り伝えられてきた「やきものの魅力」の外にあるとして、驚きを与えつつもその表現行為が陶芸界から等閑視されてきた。この状況を横目に見ることで、八木ら走泥社の作家は、陶芸家が心情的に抱え込む「轆轤」や「土の生理」などのキーワードを通じて陶芸としての「正当性」を導き出し、やきものという制度に沿って自身の活動を展開させていったということもできる。その意味で、走泥社の「壺の口を閉じるとオブジェになった」という言葉並びに思考法は示唆的である。
亀井が活躍する現在は、四耕会や走泥社の作家がオブジェを制作し始めた時期から60年以上が経過し、また、現代美術に近接したとされるクレイワークの1980年代を経て、美術や陶芸を取り巻く状況が大きく変化したかにみえる。しかし、我々は表面上の表現の多様化に対して、器とオブジェを区分する態度や、両者の関係について思考停止に陥らせてしまう「やきものの魅力」による潜在的な束縛からは未だ自由になれてはいない。それに対して亀井は、両者の通念上の表現形式の隔たりの存在を認めたうえで、やきものとして両者を「共存」させることの可能性を、倫理性を持った造形において追求している。これは焼成を必要とするやきものは必然的に内部に空洞をはらむことから、すべて「器」であると断定するような近年の安易な造形思考によるものではない。それが亀井の制作を、かつて走泥社の作家たちが試みたように「壺の口を閉じ」てオブジェとする態度ではなく、いかに「口をあける」のかという意識から出発させるのである。
口をあける。これだけを聞くと、あらためて壺や皿など我々に馴染み深いやきものの姿が思い浮かぶかもしれない。しかし、格子状の亀井の《Lattice receptacle》シリーズは、一般的なやきものに対する器物からは程遠い。またそれはいわゆる従来型の陶のオブジェとも異なる形態感覚を有している。人は「はじめて」の物事に出会った時、自らの記憶の奥底を探り、その中から類似点や共通する何かを見つけることで、目の前の物事を把握し理解する。そのために対象の認識においては、自らの経験や立ち位置に多くを負うことになる。そして亀井の作品の格子状の形態は、表面的な類似性から、多くの場合で「ビルのような」、「ジャングルジムのような」と形容されてきた。ただし、この形容詞は亀井作品の形態の特異性(オブジェ的性格)を際立たせるとしても、それだけで認識を完結させてしまうことから、形態を通じた器物性へと思考を向かわせることはほとんどないように思われる。しかし器の造形をその一般的な形態的特徴から、ひとまず、ある空間が面によって覆われていったもの、そして開口部を軸に内部と外部を緩やかにつなげる役割を持つものと捉えると、造形性と器物性の関係を考える手がかりが見えてくる。
私は以前、亀井の作品が自然界のものごととの構造的共通性を持つことを指摘した。(『美術の窓』2016年6月号)それは、基本単位となるキューブを積み重ねた亀井の作品同様に、自然界ではほとんどのものが結合体として存在する事実にイメージを重ねてのことである。例えば雪などの多結晶は単結晶の規則的配列が導く複雑で美的な結合であり、同様のことは蜂の巣のハニカム構造においてもいえる。特にハニカム構造は、単純なユニットを一単位として、それを規則的に増幅させていくことで、密度と強度、容積、さらに美性をも獲得している。自然界にはこのような幾何学的デザイン構造を持つものが多く存在しており、その造形性は、偶然にも結晶をテーマとした後の亀井の作品に近似する場合がある。そこで自然界の生物それ自体に目を向けてみる。生物は動物と植物とに大きく分けられるが、いずれも細胞の結合によってその形態が成立している。これは原子や分子の規則正しく周期的な配列で構成された固体という意味での結晶そのものではないが、生命活動に基づく規則的、必然的な結合体の一つの理想的な姿である。しかし動物と植物との根本的な違いは、その構造にある。
哺乳類のような動物は、食物の捕獲など生命維持のために移動を伴うことから骨格系を持ち、その骨格系に支えられて細胞が結合している。そのために細胞の結合体は重力の影響(力学的条件)から自由となる反面、骨格系という制約があるために、大きさや形の自由を獲得することはできない。一方の植物は生命維持に移動を伴う必要がないことから骨格系を持っておらず、自身を支える構造を自ら構築する必要がある。そこで植物は、細胞を内部に核と液胞を抱え込んだ硬い細胞壁に覆われた形とすることで、レンガ建築の様に細胞を積み上げることを可能とし、大小様々な形態を作り上げてきたのである。この構造であれば、重力と細胞壁の強度との関係、さらには自然環境などの自身の生存条件との関係において、必要に応じていくらでも成長、増幅を繰り返すことができる。しかも細胞個々が形態の生成と維持に直接的に関与することから、原理上は一つが欠けると構造が維持できずに崩れてしまうように、一つとして不必要の細胞は存在しないことになる。加えて興味深いのは、植物では、細胞壁に覆われた形態内部に水や養分を隅々にまでいきわたらせるための管が張り巡らされていることである。管があることで構造的に中空となるが、この中空は造形から導かれるものであると同時に、実際に生命維持と直接に関わる用途性を有してもいるのである。
亀井の作品は5cm立方のキューブを基本単位として、制作プランにしたがって各部位の面を切り取り、縦横に結合させた格子構造である。面を切り取るということは、単に視覚的な変化をもたらすということではない。面が切り取られることで、そこに縦横無尽の通路が生じ、光や空気など様々な可視的、不可視的物質が自由に通過、移動できるようになる。さらに切り取られた面が連続することによって見るものの視線は内部の構造へと誘われ、その視線が、空間が生み出す造形性とその空間内外を通過、移動する光や空気がもたらす様々な変化の場に意味をもたらすのである。亀井はかつて自身の作品を「光の受容器」と称したが、ここでは器物であること、そして用途性を有することの意味が、造形における自律と他律の両側面から考察されている。ここに亀井の作品と生物との共通性があらためて見えてくる。それは亀井のキューブは、植物にとっての細胞個々の役割を担うものであるとともに、それらの結合体は、生命活動を営む植物の構造とも相似形を成しているということである。このように亀井は仕事を通じて、はからずも自然界の構造の神秘に触れる地点に立ったといえるが、それはそのまま陶としての根源的な世界への道筋にもつながっている。おそらくやきものにおける自然性とは、自然素材を使うことや、素材感に酔いしれること、作家の手を離れる焼成によって「魅力」が増加するということではない。今後、亀井の作品がどのように変化していくのかはわからない。しかし、その仕事は、「やきもの」という存在を理解するための、我々にとっての現代の「窓」であり続けるであろう。